[記事訳]ソルリが韓国芸能媒体を弄ぶ方法 ―新しいポップアーティスト?意図が何であれ大衆文化のリトマス紙に

2月に掲載されたソルリ論ともいえる記事を訳しました。つい先日、あんなにラブラブだった恋人チェザと破局したとのニュースがあり、またその動向に注目が集まっていますが、だからこそこの記事に書かれている内容もよりリアリティを帯びてくるような感じもします。

 

原文はこちら→ 설리가 한국 연예매체를 갖고 노는 법
[기획] 새로운 팝아티스트? 의도가 무엇이든 대중문화의 리트머스가 되다 

2017/02/16  by イ・ソンピル

「(該当の絵を指して)この文をちょっと解釈してくださいませんか?」

「解釈ですか?ただの文字ですよ。」

「分かっています。どこの文字ですか。どこから取ったのですか。」

「わかりません。音楽家に音符をどこから取ってきたのか聞いてみてくださいよ。あなたたちはどこから言葉を取ります?」  -映画『バスキア』、バスキアとある記者の対話から

キャンバスと壁面を誠意なく見える線と面、そして粗雑に見える色が満たしていた。十中八九、人々はその絵はもちろんのこと、それを描いた作家まで含めて非難したりした。映画『バスキア』(1996年)の一部だ。

タイトルから分かるように、この映画はアメリカのポップアートを先導した、今のグラフィティを大衆芸術に昇華させた張本人“ジャン・ミシェル・バスキア”の一代記を扱った作品だ。「落書き画家」という別名から分かるように、彼の絵はわずか40数年ほど前のアメリカでは無意味な排泄物程度に扱われたりした。彼が黒人だから?もちろんそれもあった。依然としてアメリカ社会のジレンマである人種差別がその頃はさらにひどい時期だったのだから。バスキアよりやや先立って登場したアンディ・ウォーホルが相対的にとても若いうちに「ポップの教皇」と呼ばれ、人々から認められたのと比較するとはるかに差異が感じられる。

結論として、アンディ・ウォーホルもバスキアも大衆から遠い領域にあった視覚芸術を近くに引き寄せた。彼らを修飾する「Pop」という単語から分かるように、二人は共に不特定多数にインスピレーションをもたらすアーティストとして、現在までその功績をたたえられている。芸術作品の大量複製化はもちろんのこと「偉大な落書き」という形容矛盾がまさに彼らの業績の一部だ。

 

“ソリノプ”の芸術性

何が大衆芸術なのかという質問に対する答えはさまざまだが、大衆の嗜好を明敏に刺激することで、活発な論議(それが肯定的であれ否定的であれ)を生み出せば、ひとまずは大衆芸術の範疇に入る十分な条件となるのではないかと思う。甲論乙駁を通じて意味の喚起を期待できるからという話だ。そのように人々に認められても「誰も私を愛してくれず、寂しく家に帰った。復活説の日、泣いた」と日記帳に書いたアンディ・ウォーホルの例を見よう。大衆性と甲論乙駁はこのようにポップアーティストの避けられない宿命かもしれない。

この基準を適用してソルリを見てみよう。そうだ。アイドルグループ f(x) 出身、今は俳優の道を行こうとしている若者チェ・ジンリだ。

すでに彼女に対するさまざまな文が出ているので、今更のように取り上げること自体が今更でもあるが、相変わらずポータルサイトで検索すると一日に少なくとも十数件、多ければ百数件を超える記事が出ている点から、明らかにソルリは研究対象となる資格が十分だ。ネチズンの間でも有名な単語“ソリノプ”(ソルリ インスタグラム アップデート)がどれほどやたらに出てくることか。

実のところ、彼女を見つめる大衆の視角は単純だった。恋人チェザとの交際事実が明らかになったころには、ただファンサービスにけちであり、自分の恋愛に積極的な「大胆な」アイドル程度だった。そうだった彼女がSNSに何種類かの写真を連続してアップし、論議を極大化させ始めた。ジョンソンズのベビーTシャツを着ると大衆は彼女に小児性愛刺激だと言い、ブラジャーを着けていない写真にはつつましくない、さらには下品だという恨みがましい非難まで登場した。

ソルリはものともしなかった。むしろそんな大衆の反応を意に介しないかのように果敢な写真をアップし始めた。例えば最近アップした“男女の性器を象徴するようなチャーハンの写真”だったり、“下半身裸体人形写真”などだ。一日に多いと数千件のコメントが彼女のSNSに連なり、その大多数が激しい非難であっても屈しない様子だ。それを楽しんでいるのかあるいは無視しているのかは本人だけが知っているが、すでにソルリ自身が論争の的になっているのを認識している証拠には十分だ。

バスキア、アンディ・ウォーホルとソルリのまた違った共通点を探すと、周囲でよく注目を集めうるあらゆることを、大衆的通路を通じて絶えず生み出したという点だ。バスキアはキャンバス、壁面、こびりついた汚れた紙にまで構わず描きつけ、人々に売ったりもした。映画『バスキア』では偶然会ったアンディ・ウォーホルにまで自分の絵葉書を売りさばくバスキアの姿が描かれている。ソルリは?

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ソルリが自身のSNSアカウントにアップした写真。左側下段と右側下段の写真で彼女はまた「ノーブラ問題」に挙がり、ロリータ写真ではないかと非難を受けたりもした。©설리

 

解釈の主題

もし、バスキアが2017年の大韓民国で活動したら、少なくとも人種差別は受けないだろうとしても、ソルリについて回る「メンヘラ」ないしは「オグロ(荒らし)」という別名がついたのではないだろうか。映画で表現した通りであれば、という話だ。映画には絶えず大衆的成功を渇望し、人々の関心を集めようとして、そのうえ麻薬中毒にもがいたバスキアが描写されている。演出を担当したジュリアン・シュナベル監督がバスキアの友人でもあったため、誇張はあるとしても少なくとも嘘ではないだろう。

再びソルリに戻ろう。話題性の面からだけ見ると、ソルリはすでに共存している国内ポップアーティストより並外れている。猫の人形ココ・シャネルを肩に乗せてニューヨークとソウルの真ん中で各種のパフォーマンスを繰り広げたポップアーティスト ナンシー・ラングが泣くほどだ。ナンシー・ラングもまた何の意味もなく見えるポーズ、あるいは大衆の目を刺激する格好で自分のイメージを存分に提供してきた。その行為の意図と関係なく、もう私たちは彼女の歩みを「ポップアート」と称するのに躊躇しない。

むしろソルリはさらに一歩進んだ様相すら見える。国内マスコミ、特に各種の説やチラシ記事をつくる芸能媒体を相手に実験した痕跡があり、それはほかならぬ「アカ爆(アカウント爆破)」だ。さる1月15日、いくつかの芸能媒体はソルリのインスタグラムが非公開になったことを競争するかのように報道した。わずか数時間後、ソルリはこれを見届けたかのようにまた公開に戻し、芸能媒体はまた再び「公開に転換」という記事を流した。その前の2016年5月にはSNS脱退に見える行動をして、やはり芸能媒体は「ソルリ インスタグラム脱退」、ひいては「恋人チェザとの不和?」など恨みめいた報道も躊躇しなかった。

特定人のSNSにコメントを残す行為はそれ自体で能動性を前提とする。関心があるから毎日見に行くのであり、なにか解釈し定義したいからそのアカウントにコメントまで残すわけだ。これを毎日疲れもせず報道する芸能媒体は、こんな大衆の反応を効果的に増幅、あるいは歪曲させる重要な手段になる。このような消費パターンならば、ソルリの立場ではその反応がどうであれ、大きく関わらないかもしれない。意図こそ知ることはできないが、大衆がさかんに解釈してくれるので、心の中では傷ついでいるかもしれないとしても、それがスターあるいは芸能人としての存在感を傷つけたりはしないからという話だ。

そうだとするとソルリは「ポップアーティスト」なのか。「大衆が最も好きなものが最もいい芸術」という旗印で大衆媒体を利用し、既存芸術の権威に挑戦したアメリカのポップアートの性格を借りれば、十分に可能だとみる。コンテンツの早い拡大と同時に意味の活発な再生産の面でもソルリのSNS活動は十分にポップアートと認めるに値する要件だ。

あまりにも真剣だと?もちろん、ソルリが本当のポップアーティストになりたいのかそうでないのか、そのよしあしを直接把握したのではない。この文を通じて言いたいことは、こんな定義にもたゆまず甲論乙駁が続くことを望んでいるという点だ。そしてソルリには引き続き動じず自分を表現してくれることを願う。私たちはどうであれソルリを通じて韓国大衆文化を消費する主体と、それを伝える媒体の素顔を加減なく「鑑賞して」いるのかもしれないのだから。そんな意味でソルリはとても見事な反射鏡であり、リトマス紙だ。ソルリはポップアーティストとして明らかだろうがなかろうが、すでに私たち自身の素顔を十分に露わにしている。この地点で彼女の(意志とは別個の)芸術性を認めてみようという趣旨だ。

最後にこの文を読んでいる読者たちに一つ問いたい。彼女に幼児性愛を読み、同性愛を読み取り、猥雑さを読むのは果たして誰なのか。この文を書いた私なのか、あるいは匿名で潜む不特定多数の中の一人を自任する大衆たちなのか。私たちは皆、ソルリの「芸術性」を消費する「素晴らしくも誠実な」消費者なのではないだろうか。

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ソルリが個人のインスタグラムにあげた写真。ソルリから「幼児性愛」「同性愛」「猥雑さ」を読むのは果たして誰なのか。©jelly_jilli

 

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ゴシップ的な記事は多いですが、こういう形でソルリを語るような文は寡聞にしてあまり見ない感じがしました。世界的アーティストのバスキアやウォーホルになぞらえることはさすがに大袈裟、と感じる人もいるかもしれませんし、個人的もそこまではどうなのか分かりませんが、ソルリはK-POP史の中では間違いなくその名を残す人だろうな、と思います。(あ、女優になるから韓国芸能史になるのかな。もう歌はやらないんでしょうか…。)当面はソルリへの注目も続くことでしょうし、果たしてソルリがアーティストなのかメンヘラなのか、はたまたただの気まぐれなのか、この文にあるように、それを読み解くのも結局私たち、ということになるのだろうな、と思います。

 

 

 

 

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